魂の世界を歩く

心と魂のナビゲーション

高いから低くなれる

水は高いところにあれば、低いところに流れることができる。

人も気高い品性を持つからこそ、低くなれるのである。


つまり謙虚な姿勢というのは、高い品性を持つ人にしか出来ないことなのだ。


もともと低ければ、それ以上低くなることはできない。

だから低い品性の持ち主は背伸びをする。


自然な状態では、水も低いところから高いところに流れることはない。



謙虚であるということは、自分の品性の美しさを無意識のうちに表現していることでもある。
人間性の善し悪しや品性の評価というのは他人がしてくれるものであって、自分がアピールするものではないのだ。

逆に言えば、謙虚でないということは、自分の品性のよろしくないことを自分からアピールしているようなものである。









謙虚であるために大切なこと

ただし、この自戒というのは、もちろん日々自分の心の様子に気をつけているというのもあるが、もっと大切なのは、叱られた時、道を誤ったとわかった時に、素直に気持ちを切り替え、潔く「すみません、私が悪うございました」と頭を下げる心である。この気持ちの切り替えが素早くできる勇気を持ち続ける心がけが、自戒するということなのだ。
あやまるというのは勇気がいる。自分のプライドも捨てないといけないし、恥ずかしい。しかし、悪いと思ったことに素直に向き合える潔さこそが、人間が伸びるためには大切なことなのだ。
これができる人が謙虚なのである。
若い時から謙虚に見える人には、どこかに偽善の部分がある。表面だけ謙虚な人に見せようとしている外連(けれん)がある。
だから、最初から意味もわからずに頭を下げなくてもよい。心の中で思ってもいないのに、態度だけ謙虚そうに見せるような、御魂磨きの点から見て邪道と思えるようなテクニックは覚えてはいけない。慇懃無礼な人になるし、善のサイボーグになってしまう。
謙虚な姿勢とは、自分の過ちにしっかりと向き合い、「私がまちがっておりました」と頭を下げる人の、その姿勢を指すことなのだ。
そうやってプライドを捨てて頭を下げる勇気を持つように心がけていれば、人間は成長すると思う。

これが出来るか出来ないかが、その人が成長するかしないかの分岐点である。


逆に自分に非があっても、見苦しい言い訳ばかりして逃げ道を作ろうとする人、自説にとことんしがみつく頑固な人、反省そのものがない人は成長しない。実際、そういう人で、目に見えるようなハッキリした成長を遂げましたというのは見たことがない。





2009.06.19 01:01 | 御魂を磨く | トラックバック(-) | コメント(0) |
12も記事を書いてしまった自分の話の、これが最後になる。
ダラダラと進んで、しかも全然終わらないので読む人がイライラしてるだろうなあと思いつつも、結局はダラダラペースのままで続けてしまった。
すみません、これが本当に最後です。


最後は、私の手の話。

私の右手は10年以上前から、主に手のひらに霊力を集中させる訓練をしている。
「できるようになるまで10年かかるよ」と先生に言われていたが、なるほど、なんとか「右手を仕事に使っている」と思えるまで10年ぐらいかかった。
最初は、ただひたすら空中で右手をヒラヒラさせているだけで、なんとなく「こんなことして、何かあるのかな?」と思っていたが、「石の上にも三年」と言うが、10年近くひたすら辛抱して練習を続けると何とかなるものであると、最近はつくづく思える。

右手の練習を進めていくのに従って、霊視のやり方も変化するようになってきた。
先生に「これはこのように霊が見えまして・・・」と言うと、「違う、それは霊の力を借りてる。神の力を借りてやらなきゃダメだ」と言われて、「なんのこっちゃ?」と最初は思っていたのだ。
もともと練習も何もしないで見えるものだから、逆にやり方を変えろと言われてもよくわからない。
わからないなりに、「今までと変えなければいけない」、「右手を使わなければいけない」をポイントとして練習を始めた。
それまでの私は、感覚的には眼球の裏側で霊を見ている感じだった。もちろん眼球の裏で見えるわけはないのだが、とりあえず目で見ているわけではない。見えている場所が、なんとなく眼球の裏とか、目と胸の間のどこかあたりとか、そんな感じだったのだ。
そうやってこちらから波長を合わせていき、ダイレクトに霊と関わった。今から思えば、確かに危険だ。
これを変えればいいのだなと思い、この霊視のやり方を封印することにした。
そして、ひたすら右の手のひらだけが鋭敏な感覚を持つように、右の手のひらだけに神経が集中するように練習を続けたのだった。
今までやっていたやり方のほうが慣れているし楽なのだが、それでは練習にならないからと思い、手のひらを使わずに霊に波動を合わせていくやり方は、やりたかったのだが我慢した。
途中、先生に「霊は見るもんじゃない。手のひらで波動をつかんで、その波動から情報をつかむものだ」と指導していただき、「ああ、私がやっている練習で正解だ」と、少し自信も持った。

こんな練習が役に立っているのかどうなのか知らないが、暗い道や家の中で目をつぶり、手のひらから感じる波動で障害物をよけて歩いてみたりもした。

そうやっているうちに、先生のほうでも、「はい、これが霊。触ってみて」と言われ、私のほうも「はい、います、わかります」なんてことができるようにもなったし、「はい、こっちは神様。波動が温かいの、わかる?」と言われても、「はい、わかります」と言えるようになってきた。


そんな練習をやって、先生にも仕事として霊能者をやってもいいと言ってもらって、どういうやり方で仕事をしようかと考えた時に、「ああ、そうだ、ブログを使おう」と思った。そして、このブログを作ったわけだ。

勉強会のお加持では、最初から来ている人は覚えておられるかも知れないが、最初は手でその人の体を触らないと霊の波動がわからなかったのだった。
なのでペタペタとお加持を受ける人の体を触っていたのだが、いつの頃からか、触らなくても霊が手のひらに吸いついてくるようになった。
最初は20センチぐらい離して、その次は30センチ・・・と手を離していき、今は1メートルぐらい離れていても霊の波動をつかみ、そのまま除霊できるようになった。
離れれば離れるほど、手のひらへの波動の感触は薄くなってくるわけだから、つまり昔よりもどんどん手のひらの感覚は鋭敏になっていると言える。

それと、これはいつの間にか私のオリジナルのやり方になってしまったのだが、お加持の最後にその人の両手を私の右手で握ることにしている。
これをやると、一旦はずし損ねた霊が右手にスーッと入ってくることも多いし、大体その人の心理状態、何を考えているか、食事が偏りすぎているとか、水分を摂りすぎているとか、イライラしすぎ、クヨクヨしすぎなど、いろんなことがわかるので、アドバイスがしやすい。
完全に私を信頼してくれている人だと、お互いが別々の肉体を持っているという「隔たり」などないかのように、ドーッとエネルギーが押し寄せてくることもあるし、こちらから何かパワーのようなものが出てきて、相手の体内に流れ込むのがわかることもある。
ただ、初対面の人とは、どうしても波長が合わせにくく、ちょっとややこしい霊がいると、その日のうちには取れない。やはり何度も足を運んでもらう必要がでてくる。
狡猾なのになると、最初はじっとおとなしくしていて、私自身や、背後にいる神の様子を見に来て、あなどれないことがわかると、後になってから急に暴れるのもでてくる。こういうタイプの霊が憑いている場合も1回では無理だ。本人が心を鍛えることと並行してお加持をしていかなければならない。

あるいは、霊がきつい場合も一回ではとれないが、初対面の人の場合は緊張しておられることが多く、手を握るとその人のエネルギーが引っこんでしまって、あるいは何か警戒のバリアみたいなものを作ってしまわれて、どうしてもその向こうへ私が踏み込んでいくことができない。
疑いながら来られる方も一緒で、どうしてもエネルギーの通りが悪い。
お互いが狎れに陥らないよう、だからと言って心の距離を遠くしないようにしながらお加持をするのが、最も除霊を成功させるためには大切だ。



さて、自分で言うのも変だが、右手はますます進化しているようである。
実は現在進行形の話があるのだ。
今月の21日に神社に行った際、先生に「また、いろいろ力がついたな」と言ってもらったが、あまり自覚がなく「へえー、そうなのか」と思いながら帰った。

次の日、右手の中指と薬指が、お灸をすえたようにカーッと熱くなった。その感覚は4〜5秒でなくなったが、その時は「気のせいかな」ぐらいにしか考えなかった。
ところが、その後も頻繁に中指と薬指だけが熱くなる。長さは4〜5秒から2分ぐらいと随分幅があるが、1日に何度もそのようになるのだ。
指先を頬にくっつけてみたが指先は冷たかった。指の中で、その熱い何かが動いている感じがする時さえある。
最初に熱くなったのが22日で、それ以来ずっと毎日熱くなり、やっと昨日あたりからなくなってきたところだ。

25日か26日の真夜中だった。ふと目が覚めて、トイレに行ったのだがベッドに戻ってきても寝つけなかったので、真っ暗な天井を眺めていたら、また右の中指と薬指が熱くなってきた。
私は空中に右手をかざし、中指と薬指を天井に向けてみた。
そして「ああ、なるほど!」と思ったのだった。
中指と薬指が、まるで何かのバリアを突き破ってエネルギーをまっすぐに天井まで伸ばしている。まるでベッドに寝ている状態で天井に触れそうな感覚だ。
なんというのか、指がどんどん天井まで伸びたような、そんな感じだった。
「これはいいわ」と私はワクワクした。
というのは、このエネルギーの突き抜けようだと、人の肉体の中まで指が入れられるはずだ。
これができれば表面にでてこない霊も、手のひらを広げて待っていなくても、こちらから積極的に体内を探っていける可能性がある。いや、可能性ではなく、それが目的の能力だろう。
27日に先生のところに行って、やはりそうであることを確認した。
先生は、「自分の指の長さの20倍ぐらいは(エネルギーが)伸びるんじゃないか?」とおっしゃっていた。
しかし、これもまた、使いこなすのに時間がかかるんだろうが練習するより仕方がない。


ちょっと話がそれるが、物事なんてこんなふうにすぐに完成するものではないのだ。
今の時代は「にわか」というのが多すぎる。辛抱が足りないというか、なんでもすぐに結果をだそうとするのがよろしくない。
辛抱とか工夫とか試行錯誤という大切なプロセスをすっ飛ばしていては何事も完成しないものだ。
私だって相当特異な人生を生きているはずだが、どれだけがんばってみても、まあ、現在この程度なのだ。
霊能者なんて、人を指導するなんて、どれほど自分自身が苦労をしなければならないか。
「にわか霊能者」ではダメだ。ちょっとでも自分が尊敬されようとか、「先生」と呼ばれたいとか、霊能者って超人的でカッコいいとか、自分の表面を偽物の宝石で飾るような、そういう「外連(けれん)」は捨てなければいけない。
私だって、指先からエネルギーが伸びると言っても、それを自然なこととして受け入れられる器になったからこそ授かるのであって、そうではなく、それを人に自慢したり、自分のために使ったりするようなことがあれば、その能力はたちまち取り上げられてしまうものなのだ。
完全な神の管理下にある人間というのは、このように能力も厳しく管理されていて、心根がゆがむと、たちまちのうちに右手は力をなくすものなのである。
なので霊能者というのは、自分自身への接し方というのを常に考え、常に自戒し、反省し、神がかかる自分自身というものの器をきれいに掃除しておく必要があるのだ。
こういうことは「にわか」ではできない。なぜならば、これは毎日の継続的な努力を指すものだからである。

私は、この世界に関してだけは、「わからない」とか「できない」とか、そういうことは言いたくない。
きっと「いつかわかる」とか「いつかできる」と思って、難しいことも辛いことも乗り越えていきたいものだ。
時々この仕事に嫌気がさして、「やめさせてください、神様」と言うことがあるのだが、でも、だからと言ってやめても、また私はこの仕事に戻ってくるだろう。結局はやめないし(実際やめられないし)、やりたい仕事だったのだ。
きっと前世から、何かの約束でこういうふうに生きる人生だったのだ。

私は潰れるわけにいかない、やめるわけにいかない。
私にでも、きっと何かできることがあると思っている。小さなことだろうが、誰かのために何かできるんじゃないかと思っている。
神にすべてを任せて生きることの安心を、できるだけたくさんの人に知ってもらうために、私はやっぱりやめるわけにはいかないし、一生潰れるわけにはいかないのだ。











2009.05.31 17:37 | 私の体験から | トラックバック(-) | コメント(2) |
告知が遅れてすみません。第49〜51回勉強会のテーマです。


「信じる」。



「信じる」という言葉の意味を考えていきたいと思っています。

前回の「添う」というのは、本当に重要なテーマでした。
出席された方は、これからも真剣に「添う」ということの意味を考え続けてほしいと思っています。
そして今回の「信じる」ですが、これも「添う」ということとリンクする重要なテーマです。

神を信じる、つまり信仰するということ。そして、誰かを信じる。自分を信じる。
信じつづけることの難しさや苦悩。そして、それを乗り越えるための考え方や工夫。
そして、そもそも「信じる」というのはどういうことなのか?

信仰生活においてのみならず、日常生活や自分の人生を強く生きるための「信じる」知恵についてお話したいと思います。




2009.05.18 18:06 | お知らせ | トラックバック(-) | コメント(0) |
今回から京都、名古屋、東京の勉強会の告知を同時にすることにします。


今回から、なるべく名古屋の勉強会と神社の祭事を同じ日にするようにしますので、1日で祭事と勉強会の両方に参加したい方はスケジュール調整をして参加できるよう、あらかじめ同じテーマの全ての勉強会の日程を告知するようにしました。
もちろん、祭事と勉強会の両方に参加するというのは強制ではありませんので、勉強会のみ参加する方はそのようになさってください。



第49回勉強会  京都

日時: 平成21年6月7日(日)  午後2時〜4時 

場所: 法華クラブ 会議室




第50回勉強会  名古屋

日時: 平成21年6月21日(日)  午後2時〜4時

場所: アレックス会議室




第51回勉強会  東京

日時: 平成21年7月26日(日)  午前11時半〜午後4時

場所: ローズガーデン新宿



参加費はどの会場も8千円です。







申し込みは、名前(HNのある方はHNも)と、どの会場に参加するかを書いてメールで申し込んでください。
メールアドレスはサイドバーのカテゴリーの「電話相談の申し込み」の記事内にあります。
申し込み締切りは、すべての会場で当日の2日前としますが、締切り後の申し込みはお問い合わせください。(たぶん、お断りすることはないと思います)
参加申し込みをされた方には、後日、案内状を添付ファイルにてお送りいたします。




京都に関してのお知らせ、その他

京都の申し込みに限っては、椅子と机のレンタル数の都合がありますので、3日前ぐらいまでに申し込んでいただけるとありがたいですが、仕事の都合などでギリギリまでわからない方はかまいません。できる範囲でご協力いただけると嬉しいです。



名古屋に関してのお知らせ、その他

名古屋に申し込む方は、勉強会のみか祭事と両方参加されるのかも書いてください。

祭事のあとの、会場への移動時間や昼食のことを考え、今回からは名古屋の開始時間は午後2時にしました。
それから名古屋も東京と同じように受付開始と同時に、先に何人かのお加持をしようと思っていますので、勉強会の前にお加持を受けたい方は受付開始時刻に来てください。



東京に関してのお知らせ、その他

東京はお加持が前半と後半にわかれていますので、前半、後半の希望も書いてください。初めて参加される方は、過去の東京の告知を見て参考になさってください。
わからないことがあれば、お気軽にお問い合わせください。




また、今回のテーマは近日中に告知いたしますので、もう少しお待ちください。




みなさんのご参加をお待ちしています。




2009.05.16 20:52 | お知らせ | トラックバック(-) | コメント(0) |
そして現在に至る・・・みたいな内容でまとめようとして、そうだ、もう一つ節目があったなと思ったので、今日はそれを・・・。


おサルの話


過去に何度も書いている内容の重複になるが、あのおサルの出現だ。自分でもしつこいと思うが、「私の話」の中の一貫として、また書くことにする。
過去の記事にも書いているとおりで、主人の伯母の世話をして、彼女の人生の整理をすべて終えた時、その場所で集中豪雨に遭った。
その場所とは京都駅だった。京都駅の烏丸中央口のところにあるホテルから出てきた時、急に雷とひどい雨に見舞われたのだった。
これも以前の記事で書いたが京都駅周辺だけの狭い範囲の集中豪雨が不思議だということで、その日、テレビでニュースに取り上げられたぐらいの土砂降りだった。

その後のおサルの出現で、私は生まれて初めて「熟睡」がどんなものかを知った。
金縛りにも、頻繁にどこかの霊界に離脱して出かけていって朝にはぐったりして、逆に疲れて目が覚めるということもなくなった。
これもまた、そうなってみて初めてわかったことだが、私は常に満員電車の中にいるような、誰もいないけどたくさんの人がいるような違和感を、子供の頃からずっと抱き続けていたのだった。
いつも自分の全身に何かの霊を感じ続けていて、いつも他人と一緒にいるような疲れを慢性的に感じていた。
おサルがきてから、それがパッタリとなくなり、私の体の周辺は実に爽快で清々しいものになった。これが普通の状態だということを、30歳も超えてから初めて知ったのだった。
それから、おサルは当初いろんなものを見せてくれた。先生にも「おサル君は、いろんな珍しいものを見せてくれるよ」と言われていたが本当だった。

夜、主人と、京都の鞍馬の山奥をドライブしていたら、急に大きなシカが道に現れたことがある。
驚くほど大きなシカで、左右に張りだした巨大なツノを持っていた。「主(ぬし)」というのは、こういうのを言うのだろうと思った。
満月を背中にして、大きいけれどスラリとした身体で立ってこちらを見つめる姿は、シカと言えども神々しいばかりのオーラを放ち、思わず手を合わせて拝みたくなったほどだ。
主人も何も言わず、静かに車のエンジンを切った。私たちとシカは、1分以上も黙って見つめあった。
当然、外灯のあるような場所ではなく、暗闇の中、満月だけがシカの姿を青く照らし、それはまさに幻想の世界、いや、神の世界にトリップしたかのようだった。
やがてシカは、木々の間にひとっ飛びにジャンプして、その大きな姿を消してしまった。
主人でさえ、そのシカのあまりの神々しさに圧倒されたらしかった。
先生から「シカは神の使いだよ」と教えてもらっていたので、「あれが使いなのか、おサルさんが見せてくれると言うのはこういうものなんだ」と感激した。

その後すぐに、オニヤンマが家の屋上に干した洗濯物にとまっているのを見つけて驚いたし、家の横の川でカワセミを見つけた。
どちらも京都市内の、こんなゴミゴミした場所にいるはずのない生き物だ。


しかし、そんなことが続いていた頃、もう一つ同時に不思議なことも起き始めた。
先ほど、生まれて初めて熟睡できたとか、満員電車の中にいるような違和感から解放されたというようなことを書いたのだが、どういうわけか、金縛りはないものの、またあの満員電車のような感覚を感じるようになってきたのだった。
ところが、この時は今までとは全然違っていた。どうやら霊が増えたり減ったりするようなのだ。
最初少ないのが、だんだん増えてくる感じがする。ところが突然パタリといなくなって、また爽快感のようなものが戻ってくる。そしてまた、少しずつ増えて、そしていなくなって爽快感、そしてまた増えて・・・のくり返しなのだ。これを1ヶ月ぐらいのサイクルでくり返すのだ。
そしてもう1つ違うのは、霊のタイプだった。今まではずっと霊にやられるというか、冷たかったり、怒りや、悲しさを感じるような霊気で全身を包まれて、常に疲労していたのに、今回の霊は、確かに人がいっぱいいて疲れる感覚はあるものの、何の攻撃的な霊気も発することがない。静かに家の中にいるだけなのだ。私に憑依しようという気もあまりないらしく、それどころか、まるで「勝手にお邪魔してすみません」と頭を下げそうな慎ましい態度である。
「なんだ?これ」と思い、先生に聞いてみた。
そしておもしろい話を聞いたのだった。

先生によると、おサル君(先生はおサル君という呼び方をされる)が、良さそうな霊をスカウト(?)してきて、その霊を選別して家の中に入れたり追い出したりしていたらしかった。
それはなぜかと言うと、将来私が霊能者をやる時に協力してくれる霊ができるだけ多く必要だからということだった。
悪い霊以外は、とりあえず家の中に入れ、満員になると、特に協力的で役に立つ霊だけを選んで、後はお引き取り願うということをくり返していたらしいのだ。
霊の存在を信じない人から見れば、まったく荒唐無稽に聞こえる話だろうが、私は心の底から納得し、なるほど、すべての謎が解けたと思った。先生の話を聞く前から実際にそういう状態だったので、疑いようもなかった。
そういう理由だと、確かに霊が増えたり減ったりする理由もわかるし、その霊が全員穏やかな霊で、私に何の悪さもしないことだって納得できる。
それでも2〜3体、妙な霊に憑依された。先生にたずねたら「そりゃ、おサル君の人選ミスだ。まあ、たまには失敗もある」と言われた。
私は、家の玄関先で、まるで空港の税関の人みたいに霊をチェックしているおサルの姿を想像して笑えた。
「はい、キミは入っていいよ」「君はダメ。悪霊はダメよ、出て行ってね」とか。それで、たまには大麻なんかを隠し持ってる悪いヤツが見抜けないで、うっかり家の中に入れてしまったりするのかなあと思うと、ますます笑いがとまらない。


ところで、その中にこんな霊がいた。
いつも私の後ろをついて歩く若い女性の霊だ。古い霊だというのと、生前は小柄な人だったろうなあと思うが、何を訴えるわけでもなし、いつも静かに私の側にいる。
自分でいうのも変だが、この霊は私のことを気にいってくれているらしかった。どうも私のことを好いてくれていて、それで私の後ろをついて歩くような感じだった。
先生に会った時に、この霊は、初めて自分の思いを訴えた。
この女性は、江戸時代の人だった。人を助ける仕事がしたくて、お医者さんになりたかったのだが、当時女性が医者になって働くということがなかなかできない時代だったため、彼女はあきらめて、別の仕事で人助けをしようと思った。そして仏門にはいった。つまり、この人は尼僧だったのだ。
仏教の教えを説いて、人の心を軽くしてあげたい、人の幸せに貢献したいという思いでいたのだろうが、どうも三十代半ばぐらいで亡くなっている様子だった。
江戸時代に三十代半ばで亡くなるのは早いのか遅いのか、ちょっと感覚がつかみづらいが、いずれにしても彼女は、もっと生きて人助けの仕事がしたかったようである。
彼女は先生に、除霊しないでほしいと訴えたらしかった。私はこの人の側にいて、この人を手伝いたいのだと、私は何百年も前からこの機会を待っていたのに、このような人に出会うのを待っていたのに、除霊されてしまったのでは、私が不成仏霊として過ごした年月が無駄になると言ったらしかった。
先生も、さすがにその時は除霊するのをやめて、「じゃあ、ちょっと神様に相談しとくわ」とおっしゃった。
そして「私たち」は、そのまま同じ家に帰ったのだった。

時代をとび超え、人と人は愛により心を添わせることができるのだと思うと、こういう時だけは霊感
があってよかったなあと思う。
愛や情け、人の心の優しさというものは、いつの時代もまったく変わらず同じなのだ。




そんなわけでおサルの出現で、私は生まれて初めて熟睡できるようになり、ひっきりなしに霊が見えることもなくなり(まるで霊感がなくなったが如くである)、そして見えない世界では、着々とおサルを通じて、仕事に向けての人材(霊材?)集めが行われていたようだ。

確かに、この頃から私はあまり霊にやられることがなくなった。
自分自身が強くなったというのもあるが、明らかに以前の自分とは守護の大きさの違いを感じるようになり、より一層それらの善霊や神々との一体感を強めていったのだった。
善霊や神々の守護、協力をいただかなければ、こういう仕事は私一人でやっていけない。霊界でも現実でも、できるだけ多くの人の協力が必要だ。

この頃から私は、以前の私とは180度違うと言ってもいいほどの「新しい自分」を作り始めていた。





2009.04.22 17:07 | 私の体験から | トラックバック(-) | コメント(0) |
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